つい最近、「フィニングの風評被害で、気仙沼は未だに大変らしいよ」と仲間の水産関係者から聞きました。
依然として3年前の事件が尾を引いているのかと思うと、胸が痛みます。
目次
フィニングとは何か
フィニング(shark finning)とは、生きたサメからフカヒレの原料となるヒレの部分を切り取り、残った体を海に捨ててヒレだけを効率的に持ち帰る漁法のことです。
残酷性などの理由から、日本、米国、EUなど約100ヶ国では禁止されていますが、インドネシアや台湾、中国など一部の国で未だに行われています。
ラッシュジャパンによる的外れな「反サメ漁」キャンペーン
少し前のことになりますが、2014年5月、のラッシュジャパンが「反サメ漁」キャンペーンを張ったことがありました。
これに大変なショックを受けた人たちが居ました。
東日本大震災から3年。
「高級フカヒレ」を復興の起爆剤の一つに位置づけてきた、宮城県気仙沼市の水産関係者です。
サメ漁に対する根拠のないマイナスイメージが拡がり経済的な打撃を受けかねない、と懸念する同関係者の談話を毎日新聞が取り上げることで、この問題は本格的炎上にまで発展しました。
【出典】毎日新聞 2014年5月29日(オリジナルは掲載終了しているのでアーカイブ)
ラッシュジャパンが2014年5月「残酷なフカヒレ漁反対キャンペーン」を行うと発表
(内容は、サメの背びれをモチーフにしたチャリティーせっけんの販売、一部店舗で「残酷なフカヒレ漁を象徴する」パフォーマンスの実施)
気仙沼遠洋漁協は、気仙沼のサメ漁が誤解を受けないよう配慮してほしいとラッシュジャパンに申し入れ
(反論の根拠は、気仙沼のフカヒレ漁はフィニングではないこと、肉ははんぺんなどに、皮は財布などに、骨はサプリメントに余すところなく利用されていること、持続可能な漁業を目指していること)
ラッシュジャパンは「気仙沼のサメ漁に反対する意図はない」としたが、売り上げは「あらゆるサメ漁への反対」を掲げる「パンジアシード」の日本支部に寄付されることが決まっていた
その後この騒ぎは、大批判や不買運動にまで発展したものの、当初「反サメ漁」「反フカヒレ」としていたタイトルを「残酷なフカヒレ漁反対」に修正し、パフォーマンス実施店舗数を縮小してキャンペーンを完遂しました。
つまりラッシュジャパンは、英国ラッシュ本社の意向を尊重し、日本国内で挙がった「反キャンペーン」の声を封じ込め、お茶を濁したのでした。
ラッシュジャパンのキャンペーンページは既に閉鎖されていますが、facebookアカウントにおけるキャンペーンページは残っています。
消費者側からのコメント(ほとんどがラッシュ批判の内容)は消えていないので、参考にご一読ください。
【出典】ラッシュジャパンのfacebookアカウントにおけるキャンペーンのページwww.facebook.com
鮫食品の発売中止運動に対する良品計画の見事な対応
ラッシュジャパン事件に先立つ1年前、2013年6月には、無印良品の鮫の食品が、同様に、環境団体のターゲットとなった事件がありました。
この際は、流石に大企業、毅然と反論し、大きな騒ぎとはならなかったようです。
【出典】(株)良品計画のニュースリリース
無印良品「ごはんにかける ふかひれスープ」の販売中止を求めるご意見について
原材料となるヨシキリザメは、マグロ延縄漁の混獲であり、一部の地域で行われるフィニングによる漁獲ではない
ヨシキリザメが指定されている準絶滅危惧種は、評価リスト上でも低リスクに分類されており、日本国内の法令で漁獲規制を受けていない
事実関係の一旦のまとめ
フカヒレ反対派の主張の骨子は、以下の2点です;
- 生きたままヒレだけ切り取るフィニング漁は、残酷である
- サメの中には絶滅危惧種がいるから、サメ漁をやめよう
1. については、日本では「違法行為」なので遵守は当たり前です。
サメ漁に伴う他部位の有効利用の証拠も、数々提示されています。
2. については、日本で最も水揚げ量が多いヨシキリザメについて、現在の日本の漁獲量では生態系に害を与える程度ではない準絶滅危惧種です。
つまり結論として、日本、及び気仙沼は、バッシングを受ける謂われは全くない、ということです。
それでも気になる気仙沼の対応
残念なのは、ラッシュジャパン騒ぎの直後、市のホームページで積極的に事実関係をPRしてきた気仙沼市が、今となっては掲載すら止めてしまっていることです。
また、サメの街 気仙沼構想推進協議会や、一般社団法人 気仙沼観光コンベンション協会にも、気仙沼のサメ漁文化をキチンと説明するようなページが見当たらないことです。
【出典】 宮城県 気仙沼のサメ物語 気仙沼市HPより(オリジナルは掲載終了しているのでアーカイブを全文掲載します)
気仙沼市では、目前に世界三大漁場の一つである三陸沖漁場を控え、多種多様な魚が水揚げされています。
特に、サンマ、カツオ、サメ等は、日本国内有数の水揚げを誇る港町として全国に知られており、新鮮な魚介類などの、「食」を目的とした観光客も数多く訪れています。
その中でも、日本一の水揚げを誇るサメは、国内で水揚げされる90%が気仙沼港で水揚げされており、「サメの水揚げ日本一のまち」として、また、「フカヒレ生産日本一のまち」として、全国でその名が知られています。
■サメの歴史
気仙沼でフカヒレ製造が始まったのは江戸時代の末ごろです。当時、市内で商売を営んでいた店の主人が毛皮を取引していた横浜に行った際に、フカヒレが商売になることに気付き製造販売を始めたといわれております。取引の主力は、神戸で清国(中国)との貿易を仲介していたバイヤーでした。その後、明治時代まで中国への輸出は飛躍的に伸びました。
明治末から大正にかけて、底刺し網にアブラツノザメが大量に混獲されるため、これを水産加工品の原料として活かそうと、サメ肉を利用した「竹輪」や「蒲鉾」を中心とした練り製品が盛んになりました。特に「竹輪」は気仙沼が発祥の地とも言われており、生産の機械化を進めながら、気仙沼の名産品として全国を席けんしました。当時の宣伝文では、「他府県(の)追従を許さざる気仙沼の竹輪かまぼこ…」と誇らしげにその生産能力をうたっています。明治43年の記録には、150もの蒲鉾店が東京などに出荷していましたが、その後は度重なる気仙沼での大火の影響やアブラツノザメの資源枯渇、さらには、薩摩揚げや、食生活の洋風化による魚肉ソーセージなどのライバル製品に押され、次第に練り製品の主役の座を空け渡すこととなります。
サメの利用は練り製品の原料にとどまらず、サメの種類によっては、肝臓からビタミンAなど豊富に含む油が獲れるため、戦前から物資不足の戦後にかけては、栄養補給用の肝油などの原料として、また、戦時中は機械油(潤滑油)など軍需素材としても活用されていました。
また、サメ皮も貴重な資源として利用されています。
今でこそ、丹念になめされた財布やバックなどのサメ皮製品の原料となっていますが、戦時中は、統制品として専ら牛や、馬の皮の代用とされました。中国での戦線拡大で軍の皮革需要が増えたこともあり、サメ皮は国の統制によって買い付けが一本化されていたようです。現在のような高級品とまったくかけ離れたものだったかもしれません。
■サメの水揚げ
現在、気仙沼港に水揚げされるサメは、ヨシキリザメ、ネズミザメ(モウカザメ)が主体です。圧倒的に多いのはヨシキリザメで、全体の約80パーセント、次いでネズミザメ(モウカザメ)が約15パーセントでこの2種が水揚げ量のほとんどを占めます。なぜ気仙沼に多くのサメが水揚げされるかというと、気仙沼では近海マグロの延縄漁業が盛んであり、そのマグロとサメが混獲されるからです。さらには、気仙沼はフカヒレをはじめ、サメを原料とする水産加工業が盛んなことから、混獲ザメの積極的な受け皿港として、他の市場より良い値が付くのも水揚げが多い理由の一つです。
市場に水揚げされたサメのヒレはすぐ切り落とされていき、サメの加工場へ運ばれ乾燥作業に移ります。特に、冬の時期には空気が乾燥するため、フカヒレの天日干しは寒風にさらすのが良いとされており、乾燥期間は3ヶ月にも及びます。天日干しの風景は気仙沼を代表する冬の風物詩です。
フカヒレは主に首都圏に出荷され、一部は中国や香港など国外への輸出も行っています。
これを読むと、これだけの文化的背景のある漁が何故批判に晒されるのか、理解に苦しみます。
また同時に気になったのは、3年前の批判を絶好の機会と捉え、気仙沼は、何故積極アピールへ向かわなかったのでしょうか。
良品計画の論理的で的確な対応に比べ、あまりにお粗末で戦略がありません。
要は、殴られっぱなしでいいのか?ということです。
文化背景の違いを超えて理解へと進むために
ラッシュの(あるいは「一部のエコ・テロリストの」と読み替えても構いません)信じる「正義」との隔たりを目にすると、絶望的な気持ちにはなります。
しかし、彼らを「動物愛護に名を借りた『売名運動』だ」と批判するだけでは、何も変わっていかないとも感じます。
食事の時に「いただきます」と手を合わせ、命あるものを摂取することの意味を最も理解している日本人。
今や世界に通じる概念にまで発展した「モッタイナイ」を、文化背景にもつ日本人。
我々の文化は、世界的に見てユニークだからこそ、奇妙で遠いと感じる人間が多いのも事実であり、それを嘆いても仕方がありません。
少しでも理解してもらおうと努力する、努力し続けることが必要ではないでしょうか。
どんなに時間がかかっても世界へ向けて発信し続けることが、回り道のようで、最も近道なのではないでしょうか。
東日本大震災から6年半経った今日、それを強く感じます。
このエントリーが少しでもあなたの考えるきっかけになりますように、願ってやみません。
コメント
文化習慣のギャップは、なかなか埋め難いものがありますね。
「鯛の活け造り」と「トナカイの頭の丸焼き」、それぞれがそれぞれの場所ではご馳走ですよね。どちらがより残酷なのか、とか論じても意味のないことでしょう。
問題はこうした「スタンドプレー的バッシング」(に私には見えます)が、しばしばどこかで評価される現状と有効な反論方法がないことでしょう・・・
debux2さん!
トナカイの頭の丸焼きを、感覚で「残酷」と思ってしまって思考停止せず、その食文化を理性的にリスペクトする。そういうことが人類にできるのか? という命題ですね。